ラジオ体操
私(竹内成彦)は、ラジオ体操に行けない子どもでした。
毎年、夏休みの朝に、近所の公園で行われるラジオ体操に、朝起きるのが苦手な私は、どうしても行くことが出来ませんでした。頑張って行っても、せいぜい2~3回で…。
だから私は、ラジオ体操皆勤賞の子どもがもらう色鉛筆のセットやお絵かき帳など、ただの1度ももらったことがありません。
本当は、私だって、皆と同じように、喉から手が出るほど色鉛筆セットが欲しかったです。家が貧しくて満足にモノを買ってもらえない私には、なおさらのことです。
でも…
でも、やっぱり、それは嘘です。
本当に欲しけりゃ、
どうしても、絶対に欲しけりゃ、何としてでも、ラジオ体操には行く筈です。
当時、小学生だった私は、そのことに薄々気が付いておりました。
だから、もらえない自分を不幸に感じたことはありません。
※ そのことというのは、本当に欲しいというのは嘘だということ。
私は、ラジオ体操に行って賞品をもらうより、布団の中で惰眠をむさぼることを自分で選んだのだ、そう思っていました。
自分で行動を選ぶ。結果は自分に跳ね返る。
そのことを小学生の頃から知っていた私は、本当にりっぱだなと思います。
今、思い返してもあっぱれな私です。(ただ単に、怠け者な子どもだっただけなのですが…)
色鉛筆が本当に欲しければ、朝早く起きてラジオ体操に行けばいい。
行かなかったくせに、(自分で行かないという行動を選択したくせに)
「もらえない自分は、不幸だ。自分だけもらえないのは、不幸だ」
と嘆くのは、おかしいことです。
行動は、自分で選択できる。そして、結果は、自分に跳ね返る。
というか… 出来るというよりは、ある限られた枠というのはあるかもしれませんが、私たち(特に大人である私たち)は、いつも行動を自分で選択しています。常に選択し続けています。自分が選択していないということはありえません。ただそれを、自覚しているかいないか、行動を意識して選択しているか、意識せずに選択しているかだけの話です。
参考文献「選択理論」
「竹内先生の書く文章は、わかりやすくて好きですが、ラジオ体操では何が言いたいのか? もうひとつピンときませんでした。」というメールをもらいました。それでもう少し、突っ込んで書きたいと思います。
ラジオ体操に行ってないのに、「他の子と同じように、色鉛筆やお絵かき帳が欲しい」とおっしゃる方がいます。私は、それは違うと思います。
会社をたくさん休んだのに、「他の人と同じように、ボーナスが欲しい」とおっしゃる方がいます。私は、それは違うと思います。
「私は、本当に、いかんともし難い出来事があったので行けなかったのだ」と主張するのは、それは、ちょっと違うと思います。毎日、行っていた人にも、何かしら色んな出来事があった筈です。けれども、彼らは行き続けた。ただ、それだけのことです。行き続けた人には何事もなく、行かなかった自分には特別な事情があったと考えるのは、いかがなものかと思います。
ラジオ体操に行かなかったくせに、「俺を、ラジオ体操に来なかった奴だと思わないでくれ。」「俺にも、ラジオ体操に行っていた奴と、同じ賞品をくれ」「皆と同じ賞品を貰えない俺は、不幸な可哀想な奴だ」というのは明らかに変だと思います。
そう、そんなに嘆きたいのであれば、惰眠をむさぼる選択などせずに、朝早く起きて、ラジオ体操に行けばいいのですから…。そのことを、私は、小学生の頃から理解していました。正直、私が小学生の時に理解していたことを、大人になっても理解できない人が多い事実には、驚きます。(-_-)
蛇足かもしれないけれど、大切なこと…。
ラジオ体操に来なかった奴というのは、事実の記述です。その言葉をつかまえて、「自分に対する悪口だ」とか「偏見だ」とか「間違った評価だ」と捉えるのは、非常におかしなことです。ちなみに心理学では、それを投影と呼びます。
心の金曜日